慶長15年(1610年)10月18日(旧暦)は本多忠勝公のご命日
10月18日は本多忠勝の命日です。
今日は本多忠勝について見てみましょう!
本多忠勝公について
引用:Wikipedia
通称は平八郎
本多忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将・大名であり、徳川家康の家臣でした。
彼は上総大多喜藩と伊勢桑名藩の初代藩主であり、忠勝系本多家の宗家初代として知られています。
彼の本姓は藤原氏で、通称は平八郎(へいはちろう)と呼ばれました。
家康の功臣だった
忠勝は徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑にも数えられ、家康の功臣として現在も称えられています。
また、彼は日本槍柱七本の一つにも数えられています。
本多忠勝のおいたち
忠勝は天文17年(1548年)に三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で安祥松平家の本多氏の一員として生まれました。
父の忠高が戦死した後、叔父の忠真のもとで育ちました。
幼い頃から徳川家康に仕え、13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦で初陣を果たしました。その後も徳川方として戦い、三河一向一揆に参戦しました。
忠勝は徳川家康の側近として活躍し、戦功を重ねていきました。
彼は姉川の戦いや長篠の戦いなど多くの合戦に参加し、その勇名を馳せました。
特に小牧・長久手の戦いでは、わずか500名の兵を率いて豊臣秀吉の大軍に立ち向かい、戦局を有利に導いたことで知られています。
関ヶ原の戦いと本多忠勝
引用:Wikipedia
関ヶ原の戦いでは、忠勝は東軍に参加し、竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めなどに参戦しました。
彼の奮戦により、多くの首級を挙げました。
戦後、彼は伊勢国桑名に10万石の領地を与えられ、桑名藩の初代藩主となりました。
本多忠勝の遺書
遺書の一節「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」とは、侍のあり方を表現しています。
侍は、自分の手柄がなくても、困難な状況に立ち向かい、主君と一緒に死んで忠義を守ることで、侍と呼ばれる価値があると言っています。
辞世の歌「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」とは、死ぬことになっても、主君である家康への深い感謝と思いを表現しています。
この歌は、不遇な晩年を過ごしたとされるにもかかわらず、侍の心の中で主君への忠誠心が変わらなかったことを物語っています。
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